気まぐれに立ち寄った小さな建物。立ち並ぶ窓の外に、雨を流すために取り付けられ
た斜めの縁は、猫二匹が並んでは渡れないくらい狭いが、他に歩けるような道もない。
節々に、配水管を留める鉄製の輪がとりつけられ、そこに爪をかけ、かろうじて上れる
ような、辺鄙な道だ。
 なぜわざわざそんな所を歩いていたのか、自分でもよくはわからない。なにか気にな
る音が聞こえたか――多分そんな、たわいない理由だった。
 良くもなく、悪くもない空の色。頭上覆う灰色の薄いカーテンが、わずかに朱色に染
まる、そんな時間の出来事だった。

「こんにちは、猫さん。あなたのお名前は?」

 彼女は窓のすぐそばまで近づき、二回りも身体の大きい自分を見上げて、そう言った。
 その奇妙な生き物は、やはりというか、人の言葉を話した。それでは彼女は、人間な
のだろうか。自分が知らないだけで、この世界には当然のごとく存在していただけのこ
となのかもしれなかった。
 認識を改め、その小さな人間を見つめる。
 人間というものは、我々が言葉を理解していないと思いがちだが、そんなことはない。
まれにこうして話しかけてくる輩がいるが、それも独り言に近い内容であったり、心底
話が通じていると信じている者は皆無だ。
 この小さな人間も、その類だろうに違いないだろうが、気まぐれに、返事をしてみた。

「名前はない」

 我々が理解をしているのとは逆に、人間が猫の言葉を理解することはない。表情や雰
囲気から、我々の気持ちを察することもあるが、ほとんど勘のような、意思の疎通とは
ほど遠いものだ。

「言ったところで、わからないだろうがな」

 無駄だとわかりつつも付け加えた言葉に、その小さな人間は、わずかに首を傾げた。
人が、驚いたときや、なにかおかしいと感じたときによくする仕草だった。
 言葉がわからないからだろう――と興味を失い、どこか他の場所へ向かおうと背を向
けると、窓をコンコンと叩く音が聞こえ、それに声が続く。

「わかるよ、あなたの言葉」

 ガラスを通しても、その細い声は、はっきりと耳に届いた。
 驚き、振り返ってもう一度その小さな人間を見つめる。

「名前、忘れちゃったんだね」

 そして……なぜだかわからないが、彼女は悲しそうな顔をした。

「本当にわかるのか?」
「うん、なんとなくだけど。あなたこそ、私の言葉……聞こえるの?」
「意味がわからない。おまえはしゃべっているのに、聞こえないと思うのか?」

 そして、今度は笑う。
 思えば人間の少女は、些細なことでくるくると表情を変え、扱いづらかったな――と
昔を思い出した。

 昔? 自分は以前に、人と暮らしていただろうか?
 明確に思い出せるのは、今日のように大した目的もなく街をうろついている、自分の
姿だけだ。それは遙か彼方の出来事のように、霞がかかっている。本当にそんな事実が
あったか、自信をもって、そうだとは言えなかった。

「なにをしてるの?」

 その声に、はっと視線を戻す。

「探しものだ」

 とっさに口から出たのは、それが真実だったからだろうか? しかし、どうしても見
つけなくてはならない、という思いはない。せいぜいが、時々思い出したように辺りを
見回しながら歩くだけだ。
 そもそも、自分がなにを探しているのかさえ、わかっていないというのに。

「なにを探してるの?」

 彼女は構わずに続けた。

「質問が多いな。そんなこと、どうでも良いだろう?」
「……そうかもしれないね」

 また、悲しそうな顔。

「覚えてないんだ。だから、答えられない」

 仕方なしにそう言うと、彼女は微笑んだ。

「そっか。それなら、しかたないね」

 その小さな人間からの質問が多かったせいで聞けなかったが、こちらとしても質問は
山ほどある。その最たるものは、単純で明快だ。

「おまえはいったい、なんなんだ?」

 窓越しに顔を近づけると、真剣な眼差しを向け、彼女が口を開く。

「私は……」
次のページへ